平成男子

文系学部新卒SIerです。

人を無理してまで好きになることを続けて7年間経ったいま

こんばんは。

なんとなく人生を振り返ってみた。

 

小学生くらいから人に嫌われることが怖かった。

 

どちらかとういうと、人生の大半はいじめっ子側に属していた。

属していたというと語弊があるかもしれないけど、

小学生からクラブに通ってスポーツをしていたこと、

見た目が多少なりとも男前と家族には言われくらいの容姿だったことで、

自然といじめっ子側のグループのメンバーとは親しかった。

 

実際、平成の学校にはスクールカーストというものが存在する。

スポーツをやっている子らが基本的に学校内で、

大人たちからは見えない権力を振るっている。

 

田舎の学校ではスポーツをやっていなくとも、

不良行為をしているものは、周囲から恐れられ、

自由気ままにスクールライフを楽しんでいる。

 

メガネや文化系クラブの子らは、

いじめられていなくとも、少なからず、

席替えや授業や休み時間に生きづらさを感じているようだった。

これは自分の学校と兄弟のスクールライフからの知識である。

 

容姿やスポーツのおかげで、

自然とスクールカーストの上に立っていた。

 

時にいじめられている人をみて、

ああいうふうにはなりたくないな、と思った。

 

周りに気を遣いながら、ストレスの中で生きるなんて、

しょうもないな、と思った。

 

だから学生から見れば、上の立場にいるのにも関わらず、

嫌われないようにしようと不安を抱えて生きていた。

 

漫画では、大抵こういういじめっ子グループの側近は、

そのうちいじめられる側に回ったりするのだが、

特にそういうことも起こらず、平凡に小学生から高校時代を送った。

 

人に嫌われることが怖いと思った原体験はいつだったのだろうか。

学校での生活もそうかもしれないが、一番大きかったのは、私生活かもしれない。

祖父母や両親に叱られるときは、そんなことすると嫌われるよ、と自分がどうこうとかではなくて、周りの人を含めた言い方で言い聞かせられた。きっとこれが一番大きかったのだろう。

 

ところで、内田樹によると、日本の国民性を考えた時、私たちには中華のように古い歴史やアメリカのように開拓の歴史もなく、自分達の想いが帰属するところがないそうだ。確かに日本の歴史を振り返って見れば、真珠湾攻撃で死んだ方々は日本建国のヒーローであるのか、それとも世界の恥であり犯罪者であるという認識なのか、50年経った今でも、我々の想いや考え方は同じ方向性を向くことはないと私は考える。ドイツの場合、戦争の過ちとヨーロッパの復興への貢献という想いを国民全員が足並みを揃えることができていないものの、方向性は正しいところにあるのではないだろうか。

 つまるところ、日本は一人称で歴史や文化を誇ることができず、周りの国や周りの人をみて、生きる人種なのだ。キョロキョロしているというのが国民性なのだ。

 

だから、人に嫌われることが怖いのは僕個人の問題なのか。

家庭環境の問題なのか。はたまた国民性の問題なのか。

現状決め切ることができないところであるが、この短い人生のテーマにしたいと考える。

 

 

さて、こんな考え方で生きていると、ふとした時に多少考えに発展が現れた。

人に嫌われることが嫌だったので、中学生の頃から人を嫌いになることをやめたのだ。

 

中学生なりの単純な思考であった。

人を無理にでも好きになり、こちらも誰からも好かれようではないか、と。

 

この作戦はうまくいった。

脳は体や心を動かしたのだ。

嫌だった人間にも、面白みのない人間にも積極的に話しかけ、楽しく生きることができた。

周りからは、明るくて、誰とでも仲良くなれて、打ち解けるのが早いと言われた。

 

無理にでも自分の考え方に行動や気持ちを合わせて、

コントロールしていき、体に染み込ませるのだ。

 

明るくて、誰とでも仲良くなれて、打ち解けるのが早いというのは、7年前から何度も周りから言われてきたことだ。純粋に嬉しかった。

 

ここからが本題である。

自分の考え方に沿って、行動することは最初は難しいけれど、徐々にできる。

気持ちも徐々に慣れてくる。これは良いことだ。

 

ただ、ふとした時に違和感を感じるのだ。

明るくて、誰とでも仲良くなれて、打ち解けるのが早い、と言われても、

心の奥底で、本当はそんな人間じゃないと思うところがあった。

 

本当は内気だし、人見知りだし、自分でも無理してるんだと。

実際に考えに沿って、行動するとこまではできても、

やっぱり自分の人格の根本から変えることはできなくて、

気持ちを騙しきれていないんだ。

 

でも周りの人には自分が思い通りに描いた人物に見えているみたいで、

嬉しいのだか、本音で生きることができていないのが恥ずかしいのか、

よくわからなくなった。

 

それが高校2年の頃だったろうか。

それでも、今更自分の本音で生きる、人見知りの自分をさらけ出して素直に生きてみるっていうふうには戻れなかった。

だって学校ではキャラやポジションってものがあったから。

今考えてみればしょうもないでしょ?

それが大学まで続いたんだ。

 

社会人になってそれをきっぱりやめた。

もちろん本音と建前の部分は残して、

周りの人に少しはいい顔作っていられるくらいの余裕は残して。

 

そしたら随分楽になった。

嫌いな人は嫌いだし、話しかけても時間の無駄。

話しかけられるのも時間の無駄。適当に距離をとっておく。

今までは面白くないなと思った人とでも頑張って話してたけど、

それって相手にも自分にも負担になっていたんだな、と。

 

面白い人と気の合う人ととことん話す。

それだけで人生は楽しくなる。

自分の気が合う人を見つけるのは、

変わり者の自分にとっては骨の折れる作業だけど、

絶対にコミニティのどこかにはいるわけで、

そういうところで、楽しく自分らしくあれたらいいと思う。

 

社会人でも昔の自分みたいにみんなに好かれるように生きてる人をたまにみる。

この年になってもできる人っていうのは純粋で器用だから。素直にすごいと思う。

仲が良い同期の一人がそんな感じだ。自分は人を無理してまで好きになり続けるってことはできなかったけど、もし本当にそう生きることができるならば、生きやすい生きにくいは関係なく、仕事もプライベートも少し豊かな人生を送ることができるんじゃないかな、と思う。続けることができるか、できないかの分かれ目は、無理することなく人に接することができるレベル、つまり純粋さなのだろう。